小川聡クリニック

院長の独り言

番外編3〜留学時代の思い出(3):英会話での苦労話〜

私は医学部時代から英論文の翻訳や日本の先生の書いた論文の英訳などをアルバイトでやっていました。医学部6年生の時に知り合った彼女(その後の妻)とのデートの時も、いつも英語の教科書を持ち歩いていたので、「この人はなんと英語の得意な人なんだろう!さすが慶應の医学部生は凄いんだわ」と結婚を決意させる決め手になったかもしれません。ところが新婚旅行でハワイ滞在中にメッキが剥げ、初の夫婦喧嘩になりました。絵葉書を実家に送りたいというので、家内を連れて郵便局まで行きましたが、いざ切手を購入しようとしてもどう喋って良いのかわかりません。窓口で何て言えば買えるのかな?などと家内に聞いているうちに、「あんなに読み書きできるのに一言も喋れないなんて!」ということになり、危うく羽田離婚になりかけました。

卒業後の研修医時代には、とにかくアメリカに留学したくて、有名な病院のレジデント募集を見ては応募していました。しかし遠い日本から、推薦状もなく応募してくる者が採用されるほど簡単なことでなく、ことごとく「不採用」の返事で失意の底に沈んでいました。フレマン出張から慶應の循環器内科に帰室したのが1974年でしたが、そんな私の行動を耳にしたボスの中村芳郎先生が気にかけてくださり、1975年の3月頃、その年に留学予定だった先輩が急にキャンセルになったので、代わりに行かないか?と声をかけてくださいました。もちろん大喜びでお受けいたしました。しかし、いざ留学が決まった瞬間、ハワイの記憶が蘇り、英語が喋れないことに気がつきました。読み書きは全然問題ないのですが、シャイな私は外人の前に出ると何も喋れなかったのです。それで済むはずがありませんので、とにかく慶應病院の前にあった英会話学校に入校し、金髪美人の個人レッスンで3ヶ月間の特訓を受けました。もちろんそれで喋れるようになる訳はなく、最後は「ポケット英会話読本」を買い込んで、飛行機の中で必死に丸暗記してアメリカに乗り込みました。フィラデルフィアの空港に迎えに来てくれる初対面のボスDr.Dreifusに格好良く挨拶ができるようにと。丸暗記のおかげで、ニコニコ迎えてくれたボスに無事(?)自己紹介ができ、私のアメリカ生活が始まりました。

それから丸3年の留学を終え、いよいよ帰国当日になり、Dr.Dreifusご夫妻が空港まで見送りに来てくださり涙のお別れをしたわけですが、そこで衝撃的な発言がボスからありました。「3年前に初めて会った時は、君がいったい何語を話しているのか全く理解できなかったよ!」と。大枚叩いて英会話学校で学び、ポケット読本まで丸暗記していったはずなのに、あれは何だったのだろう!「英語で挨拶したんです!」とは返せませんでした。そのあとボスは、「それにしてもSatoshi、君は本当に英語が上手くなったね。たった3年間でここまでフィラデルフィア・アクセントを交えた流暢な英語をマスターした日本人は初めてだよ」と褒めてくださったのです。

渡米1年目は周りが話していることが理解できず、もちろん会話に参加することなどできませんでした。「あの日本人は無口で、本当に非社交的だな」と言われていたと思います。ただし、ラボでの動物実験中には、若い技師と一緒でしたが、専門用語を並べる医学の会話だけなら十分疎通できていました。数ヶ月経過したある日、実験中の技師との議論がやけに弾んだので、英会話が上手くなったんだなと(と勘違いして)、ルンルン気分で技師をランチに誘いました。ところが、カフェテリアで話し始めた途端、彼が言うことを全く理解できないのです。専門用語から離れ、日常会話で普通の話題を喋る彼のスピードに着いていけないことが分かって愕然としました。そんな生活を繰り返しながらでしたが、運がよかったのは、留学先の病院には日本人留学生は一人もおらず、英語を喋る以外なかったことです。2年目になるとhearingにも慣れ、相手の言っていることが判るようになると、返事も比較的早くでき会話も進むようになりました。それでも頭の中では次に喋ることを日本語で考えながら、英語を探すような感じでした。3年目になると上達のスピードはグンと上がりました。相手に言われたことに、そのまますぐ英語で反応できるようになりました。3年目は不整脈の実験だけでなく、心エコー検査にも関わるようになり、病棟で、レジデントや技師を引き連れて回診したりするようになりました。夕方には彼らをバーに誘って、恋愛や悩みを聞いてあげられるようにもなりました。心が通じる会話ができるようになり、毎日が楽しくてしかたがない感じでした。しかし言葉がわかり、相手の考えている事まで良く分かるようになると、同時に嫌なことも出てきました。アメリカの病院は世界中からいろいろな人種の医者が集まる競争社会です。スタッフとして残っていくためには一緒に生活している仲間もライバルだったのです。遠い島国からきた留学生で、研究を終えれば当然日本に帰るはずなので、最初のうちはお客様として歓迎してくれていた仲間、特に同世代の医師達でしたが、何となく英語も上手くなり、真面目に働く日本人の私はボスからも可愛がられ、もしかするとこのまま居残るかもしれないと心配するものも出てきたのだと思いました。なんとなく煙たがられているかなとか、差別されているのかなと、彼らのちょっとした会話の中から読み取れるようになってしまいました。

そんな時、3年目の中頃でしたが、突然慶應ボスの中村先生からお手紙をいただきました。「不整脈の研究も順調に進み、言葉の不自由もなくなり、たくさん給料をもらって、きっと来年も、できたら再来年もそのままアメリカに居たいと思っている頃でしょうが・・・」との書き始めで、「でもそのまま何年も居続けて成功した人はいないよ!慶應に戻るつもりなら3年が限度だから、来年には帰ってらっしゃい!ポストを空けて待っていてあげますよ」とのことでした。同じフィラデルフィアに留学されていた中村先生ならではの鋭い眼力で、見透かされた気持ちでした。きっと先生も留学で同じような経験をなさったのでしょうか。すぐお返事し、その翌年に帰国しました。
私が教授になってからも若い先生方がどんどん留学していきましたが、歴史は繰り返されているようです。今は日本人も英語が上達していますが、言葉の壁が高かった昔の楽しい苦労話でした。