1975年夏、ペンシルべニア大のInternational Houseでの独り住まいが始まりました。当時は円の持ち出し額が決まっていたので、当座の生活費程度だけ持って渡米しました。家を借りたり車を買ったりするには、アメリカの銀行に口座を開設し、日本から送金してもらわなければなりません。ところが、口座開設にはパスポート以外に個人を証明できるものが必要で、米国人はSocial Security Numberで簡単ですが、私の場合には運転免許証くらいしかありませんでした。それも持参した国際免許証ではダメで、米国で正規の免許を取り直さなければなりませんでした。そんなこんなで、銀行にも何度も足を運び、医学英語以外の慣れない片言の英語を喋る辛さを毎日味わっておりました。私の部屋は高層階の南向きで、フィラデルフィア郊外を一望できましたが、そんな素晴らしい景色を楽しむゆとりもなく、毎日沈む夕陽を見ながら遠い日本を思い出す生活を送っていました。
そんな閉塞感や孤独感のなか、ある日曜日の朝、気晴らしに何処かへ行こうと、International Houseの前の通りでぼっと一人で立っていた時に、直ぐ側に大きな車(シボレーインパラ)が止まり、クラクションを鳴らされました。ビックリして見ると、運転席から見知らぬアジア系の男性がにこやかに、何と懐かしい日本語で「日本の方ですか?」と声をかけてくれました。久しぶりの日本語ですっかり安心してしまい、「これから海までドライブに行くのですがご一緒にどうですか?」というお誘いに、迷いも無く乗ってしまいました。後から考えると、それはなんとも無防備な行動だったなと反省しましたが。誘ってくれた方も、私がガイドブックを見ながら、肩からカメラをぶら下げているので、一見して日本人旅行者だと思い、悪人にも見えなかったので、つい声をかけてしまったとのこと。私は車中で、せっかく留学してきたがボスが夏休みで研究も始まらず、住む所もなく、車も買えず、相談相手もなく、いろいろ困っていること等を話しながら、自己紹介を始めました。ところが、ビックリした事にその方は浜田康生先生とおっしゃる、なんと慶應病院の私の3年先輩でペンシルベニア大学留学中の産婦人科医だったのです。お互いあまりの偶然に唖然としました。当時のフィラデルフィアには日本商社がなく元々日本人が少なく、留学が急に決まったこともあり、どなたか先輩がいらっしゃるかなど、下調べもせずに単身渡米したので、あまりの幸運に腰を抜かしました。私にとってはまさに「九死に一生」の信じられない出会いでした。しかも、その浜田先生がその週から夏休みで、ひと月くらい旅行に出られるとのことで、「良かったら留守番をしてくれないか?車も自由に使っていいよ!」と、言ってくださいました。早速ご自宅に伺うと、先生は豪華マンションで独身貴族を謳歌されてました。留守番してくれるなら家賃も要らないよと言ってくださいました。本当に優しい先輩で、私はすっかり甘えてしまいました。
お陰で、寂しいInternational Houseでの下宿生活から解放され、先輩のシボレーを使わせてもらって家探しも上手くいき、フィラデルフィア郊外で、子育てに最適な良い環境のタウンハウスを見つけることができ、トントン拍子に渡米後およそひと月で家族を呼び寄せることができました。
その後も、浜田先生が先に帰国されるまでの2年間ほどお付き合いいただき、イタリアンマーケットで新鮮な魚介類の買い方を教わったり、米国生活の知恵をいろいろご指導いただきました。そんな大恩人の先生に、一つだけお礼ができたかな、と思うことがあります。ずっと独身を謳歌されていた先生でしたが、私どもの家へ遊びに来て頂いたりしているうちに、刺激を受けたのかもしれません。その後は休暇中にお一人で旅行されることがなくなり、よく故郷の高知に帰郷されるようになりました。そして何度目かの帰郷の際に、なんと見惚れるような若くてお美しい奥様を連れて帰ってこられました。帰郷の目的はお嫁さん探しだったのです。少しは先生の背中を押すことができたのではないかと勝手に思っています。異国の地で偶然出会った恩人、未だに私は先生のお住まいの高知に足を向けて寝られない想いでおります。