小川聡クリニック

読んで役立つ院長の医学講座 〜圧倒的な臨床経験と知識に裏打ちされた院長からのメッセージです〜

第6回「マラソン選手にペースメーカー?」

44歳男性です。1年前の健康診断で脈拍が40/分台と、極端に脈が遅いことと、心房性期外収縮などの不整脈を指摘されました。全く自覚症状はありませんでしたが、その検診機関と提携している循環器内科にすぐに紹介され、「心房性不整脈(心房頻拍、心房粗動)があり、すぐに治さないと!」と言われ、入院して電気ショック療法を受け、抗不整脈薬が処方され、ついにはカテーテルアブレーション治療まで受けられました。しかし施行後も相変わらず再発してるとのことで、今度は「『洞不全症候群』も疑われるので、ペースメーカーを植え込みましょう」と言われ、何の自覚症状もないし、その治療が本当に必要なのか不安に思ってセコンドオピニオンを求めて来院されました。

 

初診時の心電図では、脈拍数は毎分50と遅めで、I度房室ブロック(心房から心室へ伝導時間が延長した状態)を認め、さらに「左室肥大」の存在を示していました。心エコー検査で心臓の中を見ると、左心室と左心房が正常よりも拡張し、左心室の心筋もやや厚くなっていました。これらを総合すると、いわゆる「スポーツ心臓」と言って良い状態です。スポーツ選手は、トレーニングの効果で自律神経の一つの迷走神経の緊張が高まり、結果として脈が遅くなり(徐脈や房室ブロックなど)、他の心房性の不整脈なども合併します。特に安静時や就寝中には毎分30くらいの脈拍数も決して珍しくはなく、高度の房室ブロックで3−4秒間心臓が止まることもあります。ただし、一旦運動を始めればそれらは消失して、運動に対応して脈もきちんと早くなります。

 

そこで、再度問診を取り直しました。「学生時代は運動してましたか?」の問いに対して、某有名大学のマラソン選手で、あの有名な箱根駅伝のレギュラーとして毎年活躍していた、との事でした。社会人になってからはリタイアしたそうですが、今でも走ることは続けているとのことでした。まさに「スポーツ心臓」そのもので、トレーニングをした結果の不整脈だと言えました。

 

今から40年ほど前、私が循環器内科、特に不整脈の勉強を始めていた頃のことでした。まだ「スポーツ医学」という概念もなかった頃でしたが、慶應義塾大学は先進的で、スポーツ選手の健康管理に注力し、まずは体育会の部員全員に心電図を撮るという取組を始めていました。あるとき大学担当者から、余りに「不整脈で異常」と判定される部員が多く、特にキャプテンクラスにその傾向があり、そのために「当面運動禁止」とされ困っている、という相談を受けました。順次、慶應病院に呼び出して、心臓の精密検査を受けてもらいましたが、ほとんどが異常なく、運動負荷検査をすれば不整脈が消失することも判りました。これがまさに、スポーツ心臓に伴う不整脈で、しっかりトレーニングを積んだキャプテンクラスに多いのもうなずけました。こうした知見が積み重ねられ、間も無く、異常が出ても、その内容によっては運動の許可がおりるようになりました。

 

その頃、ある有名なオリンピックのマラソンメダリストの心臓をチェックする機会がありましたが、その方も安静時に撮った心電図では毎分30弱の脈拍数で、今にも止まりそうでしたが、なんの訴えもありません。トレッドミルで運動負荷試験を行って、普通の人だと根を上げる負荷量をも平然とこなされ、脈拍もせいぜい80くらいまでしか上がりませんでした。当然のことですよね。フルマラソンを走るにはこのくらいの心臓の予備能が必要だということです。スポーツ心臓では、左心室が拡張(あるいは肥大)し、心筋の収縮能も上がるため、1回の拍動で拍出される血液量が増大しているために、異常に少ない脈拍数でも体が必要とする血液の拍出(心拍出量)が十分に維持されているのです。

 

「普通の人」なら「異常」あるいは「治療が必要」と判断される不整脈であっても、スポーツ心臓では、当たり前に見られる不整脈があるということを知っていれば、この患者さん(いえ患者さんではなく、ただの健康なスポーツマンですね)にとっては、健康診断以来に施された治療の全てが不要だったということになります。不要というよりも、何らかの合併症リスクを伴うこれらの治療はやってはならなかった、それが私のセコンドオピニオンでした。大変無念な思いをしました。

 

ただし、それだけで終わりにするわけにはいきません。通常は、運動を止めた後は、鍛え方にもよりますが徐々に「普通」の心臓に戻ります。注意しないとならないのは、その過程で病的な状態に移行することがあることです。心臓の収縮能が「普通」に戻る過程で、脈拍だけが異常に遅いままだと、全身への血の巡りが低下し、失神、倦怠感、めまいなどを伴う「病的な徐脈」でペースメーカーの適応と判断されることもありえます。今回拝見したスポーツマンも、もちろん現状ではペースメーカーは必要ありませんが、定期的にチェックしていく方針です。